Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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明野村Z




【〈持続的なもの〉という装置】
印象の活気と程度が連なる場、言い換えれば《瞬間における触発》という出来事が分散
してしまうことなく、〈線を引くこと〉という連続的プロセスへと常に包み込まれ得る場は、
《時空連続体》という場である。すなわち、例えば何らかの〈音〉、〈熱/暑さ〉、〈痛み〉
等(Xというもの)が成り立ち得る場である。この《時空連続体》は、その都度の《瞬間
における触発》がその強さに関してまとめられ互いに結び付けられることによって、〈Xと
いうもの〉(集合=X)の一つの〈要素〉(内包量)として位置づけられ得る場である。こ
の〈Xというもの〉、例えば〈痛みというもの〉は、ある特定の《触発可能性の集合》を表
現する《触発の強さの連続体》なのである。
例えば〈痛みというもの〉は、およそ可能な一切の〈痛さ〉、つまり今ここでの〈まさに
この痛み〉を含まなければならず、しかも〈痛み〉以外の様相を持ってはならない。《触発
の強さの連続体》である〈痛みというもの〉にとって、この〈痛み〉以外の様相は、いわ
ば《裂け目》である。《超越論的図式》は、〈Xというもの〉を支えている《時空連続体》
を、〈まさにこのX〉への変換の場としてその都度造型しなければならない。
さて、《超越論的図式》とのこうした関係を組み込まれた《時空連続体》が、〈持続的な
もの〉という装置である。ところで〈線を引くこと〉における空間と時間の結びつきとは、
「時間系列におけるさまざまな継起する部分」(A183/B226)に一体一に対応して空間系列
のさまざまな部分が「同時にあること」(B225,257f)である。この連続的プロセスは、《時
空連続体》に支えられることにおいて、それとの固有な関係を組み込まれている。例えば、
デッサンの際にカンヴァスの上を駆け巡る絵筆は、時間の流れにぴったりと寄り添いなが
ら、多様な描線(まさにこの線)を生み出していく。この絵筆の動きが、常に同時にそこ
にあるこのカンヴァスをその都度の描線が生み出される場へと造り変えていく。ここでカ
ンヴァスは、およそそこに描かれる一切の線(線というもの)を含み、それを支えている
《時空連続体》である。すなわち、絵筆の動きが組み込まれた「継起するものと同時に存
在するもの」(B67)としての〈持続的なもの〉なのである。
この〈持続的なもの〉は、〈線を引くこと〉という思考の働きがその都度空間と時間を結
び付けることによって現実的経験を成立させる場の仕組みである。この〈持続的なもの〉
は、その都度今ここでの〈まさにこの痛み〉の認識(まさにこの私の経験)を生み出して
いく連続的プロセスがそれに組み込まれ、そのプロセスとともに常に同時にあるものとし
ての《時空連続体》であり、およそそこで生み出される一切の〈痛み〉(痛みというもの)
を含み、それを支えるものなのである。
〈Xというもの〉と〈まさにこのX〉を結び付けている《空間と時間の必然的な結びつ
き》という形式は、この〈持続的なもの〉という装置にもとづいている。《我々の経験の形
式》は、この〈持続的なもの〉という装置の形式なのである。
そこで、この装置を〈把握の装置〉としてとらえ、それに焦点を絞ろう。例えば、〈私〉
が〈まさにこの手〉を動かすことで線を引いたり数えたりする場合、〈私〉はこの動きに伴
う特定の触発を一つの系列として感じている。言い換えれば、〈私〉はこの触発の継起を一
つの持続=量として把握している。ところで、その都度の〈まさにこのX〉(Xには、例え
ば「手」が代入される)の動きに伴う触発がそれに組み込まれ、常にそのXの動きと同時
にあることが把握されている時空連続体は、《自分の体》と呼ばれる。《自分の体》とは、
そう呼ばれる限り、そのあらゆる部分の動きがそれに組み込まれ、常にその動きと同時に
あることが把握されている装置である。逆に言えば、《自分の体》と呼ばれるものは、それ
自体で成り立つものなのではなく、それ自身の把握の装置が解体すれば、それとともに分
裂・崩壊へと向かうのである。
 例えば、〈誰か〉が手を上げて下ろす間にこの把握が失われ、しかもこの動作を絶えず反
復しているとしよう。手を下ろした直後に「もうそのくらいにして休みませんか?」と何
度言ってみても、彼は何気なく手を上げながら困惑の叫び声をあげる。やがてその動作を
繰り返す余り倒れてしまうとしても、彼にはわけが分からない。彼の手の動きは、もはや
(彼の)〈手の動き〉ではなくなっているのだ。
 【〈線を引くこと〉から〈数えること〉へ――自己形成と自己分裂の《狭間》で】
〈数えること〉に関して、カントは次のように語っている。
「悟性の一概念としての量(Quantitas)の純粋な図式は数であり、数とは(同種の)一つ
のものを一つのものへと順次加えることを包み込んでいる表象である。従って数とは、私
が直観の把握において時間そのものを産み出すことによって、同種な直観の多様なもの一
般の総合を統一することに他ならない」(A142f/B182)
ここで記述されているのは、〈持続的なもの〉という装置、つまり把握の装置の作動形式
である。すなわち、〈数えること〉というプロセスにおいて、「〈線を引くこと〉の把握」
がその都度反復されるあり方/形式が提示されている。言い換えれば、与えられた多様な
「直観の把握」(cf.A143/B182)という場面で、その都度〈継起するものと同時にある〉と
いう装置が作動する仕方/形式を規定している。〈我々〉が内包量を「数量(Quantitas)」
(A163/B204,etc.)として認識できるのも、この把握の装置による。そこで、試みに、次の
ような状況を想定してみよう。
 私は、ダイニング・テーブルの左の隅に置かれたレモンを一つずつ右方向へと動かして
一列に並べながら、レモンを数え始める。その際、私は数える動作を開始する時点(手を
動かし始めた時点)から「一、二、三、……」と自分(の心)に聞こえるように声を上げ
ながら(または心の中でささやきながら)、「時間」も計測する。さて、私がちょうど「1
0単位時間」計測し、その「10単位時間」後にレモンの個数を数える動作を止めること
にする。こうして、ちょうど「10単位時間」レモンを数えるとレモンは全部で「10個」
になることを学んだので、今度は逆に「10個」レモンを数えて「何単位時間」になるか
計測してみたら、当然ながら、ちょうど「10単位時間」だった。結局、レモンを数える
この〈手の動き〉は、「1個」数えるごとにいつでもちょうど「1単位時間」を産み出して
いた。つまり、〈この手〉が数えるレモンの「個数」が、その都度産み出される「決まった
(X単位)時間」を表現することが分かった。
そこで一般に、《この(私の)手の動き》はその都度「決まった時間=α」を産み出すも
のとしよう。次に、先の誰かの〈手を上げて下ろす動作〉がやはり「決まった時間=α」
をかけてなされ、その際、「決まった線=Λ」を描いてしまうと仮定しよう。よって、先の
誰かの動作の反復が産み出し表現する「決まった時空系列」[α・Λ,α・Λ,α・Λ,…
…]は、《この(私の)手の動き》の反復が産み出し表現する「決まった時空系列」[α・
レモン,α・レモン,α・レモン,……]に一対一対応することになる。よって、「〈あの
手〉は繰り返し線を引き、〈この手〉は繰り返しレモンを数えている。しかも全く調子を合
わせながら!」ということになろう。幸運にも〈線を引くこと〉と〈数えること〉が出逢
い、〈まさにこの線〉と〈まさにこの数〉が仲良く規則的に産み出されているというわけだ。
だがこうした想定に対して、次のような論争があり得る。
――線を引くことと数えることの幸運な出逢いだって? とんでもない!〈この手〉と〈あ
の手〉が「それぞれ勝手にやっている」だけじゃないか。〈あの手〉は「わけもなく動い
ているだけ」で、実のところ、もはや〈手〉とは呼べはしない!
 ――そもそも、あの(先の誰かの)反復運動は、彼にとっては、反復でも運動でもない。
そうした把握が成り立つための〈持続的なもの〉という装置が壊れているのだ。
――いや、こうも言える。壊れているというより、むしろ、自己形成と自己分裂の《狭
間》におけるダンスだ。〈まさにこの手〉を失った彼は、言わば、終わり無き訓練プロセス
の内にある。
このように、色々な言い方ができよう。しかし、結局〈我々〉にとって、あの〈誰か〉
とは、一体〈誰〉なのか。
【危機的迷宮へと向かって】
 カントは、《実在性の図式》の記述を次のように始めている。
 「〈……があるということ〉実在性)は、純粋悟性概念においては、感覚一般に対応する。
よって、その概念そのものが、(時間における)存在を示す」(A143/B182)。
実在性の図式が表現する〈実在的なもの〉は、すでに〈持続的なもの〉という装置に組
み込まれている。つまりそれは、時空連続体(我々の身体)との不可分な関係のうちに組
み込まれた《触発の強さの連続体》(例えば〈痛みというもの〉)に他ならない。従って、
この実在的なものの〈知〉を生み出す実在性の図式は、例えば〈痛みというもの〉を支え
ている時空連続体(我々の身体)を、〈まさにこの痛み〉(ある決まった触発の強さ)への
変換、移行の場としてその都度造型しなければならない。
「ところで各々の感覚は程度あるいは量を持ち、これによって感覚は同じ一つの時間を、
言い換えれば、ある対象の同じ表象に関わっている内的感官を無(=ゼロ=否定)に至っ
て止むまでさまざまな程度に充たすことができる。それ故、実在性から否定性に至る関係
や連関、あるいはむしろ移行が存在し、この移行はそれぞれの実在性を量(Quantum)とし
て表象させる。よって実在性の図式とは、あるものが時間を充たしている限り、そのもの
の量として、まさにこの(eben diese)時間における実在性の連続的かつ同型的な産出なので
ある」(A143/B182f,強調は引用者による)
従って、〈まさにこのX〉の知を生み出す「可能性の条件」であるはずの《超越論的図
式》は、自らもまた、その都度の経験が現実化する過程、すなわち〈まさにこのX〉だっ
たのである。
『純粋理性批判』には、あの「集合論のパラドックス」(あるいは《自己言及性のパラド
ックス》)が――ちょうど神話の中の怪物ミノタウロスのように――密かに棲み付いていた
のだろうか?  
だが、むろん、そう語るだけでは足りない。問われているのは、ある固有な《危機的生
存》なのである。カントは、次のように言う。
「現象における実在性と否定性の間には、多くの可能な中間感覚の連続的な連関がある」
(A168/B209)。内包量は、このあり得べき連続的移行のプロセスにおいてのみ知られ得る
量であった。よって、《瞬間における触発》という出来事はすべて、それが〈何か他のもの〉
へと移りゆく限りでのみ〈まさにこのX〉として包み込まれる。ところでこのプロセスは、
内包量の〈知〉が成立すべき限り、把握の装置に基づいた《恒常的な連続性》を持たなけ
ればならない。すなわち、総合的統一の働きに、中断、あるいは《裂け目》があってはな
らない。というのも、「もし現象の多様なものの総合が中断されるとすれば、この多様なも
のは多くの現象の集積/寄せ集め(Aggregat)となるが、それは本来の量(Quantum)として
の現象ではない」(A170/B212)からである。つまり、プロセスの中断、あるいは現象の《裂
け目》においては、〈まさにこの痛み〉も〈痛みというもの〉もない。そこでは、〈我々〉
に共有される言語、あるいは《言語ゲーム》は機能停止する。危機的迷宮(という《裂け
目》)は、この《我々の経験の形式》に組み込まれていたのだ。
さて、〈持続的なもの〉という装置が崩壊していくとともに、あの迷宮がその姿を次第に
あらわにし始める。つまりそれは、あの《叫び声をあげる者たち》の生存が大いなる「危
機」にさらされる場面である。そこでは、〈まさにこのX〉と〈何か他のもの〉との分裂
があらわになり、《まさにこの私の経験》は絶えず〈何か他のもの〉の断片へと引き裂か
れていく。「一つの経験」の崩壊。それは絶えず逃れ去り置き去りにされ、それまで眼の
前にあったはずの光景は、粉々に砕け散る。
ところで、この叫び声が響き渡る場面においても、反復される規則的な〈手を上げて下
ろす動作〉は、同様に規則的な〈レモンを数える動作〉と対応していた。そこで〈我々〉
は、これら両者が表現する規則をそれぞれ確定し、さらに、二つの規則の間に〈対応/変
換規則〉を設定することも出来る。つまり、そこにおいて〈線を引くこと〉と〈数えるこ
と〉とが出会う装置が造型される。実際、《我々の生存》は、すでに隅々までこの装置によ
ってコントロールされている。だが、〈我々〉によるこうした〈対応/変換規則〉の設定は、
あの〈叫びを上げる者〉に対しては、機能しない。二つの動作の間に、どのような〈同じ
規則〉が設定されようとも。あの〈叫びを上げる者〉が表現するのは、危機に陥った《我々
の生存》そのものではないか? むろん、そうに違いない。〈我々〉は、他ならぬこの《我々
の生存》に問いかけるべきなのだ。(注4)
冒頭で問われた、〈我々〉の現実的な経験の唯一性と〈我々〉の自己との不可分な絆を支
えるという「課題」を担い、そして自らその「課題」として機能するのは、「統制的原理の
図式」(A678/B706,A699/B727,etc.)、すなわち「(統制的)理念」である。「理性の図式」
とも呼ばれる〈理念〉は、実践的なレベルにおいてこそ作用すべきものである。理性の《自
己訓練》の「主体」は、同時にこの《自己訓練》の場である経験の「客体」としてその都
度生成する。〈我々〉とは、この終わり無き訓練――綱渡り――のプロセスに付けられた名
前である。実践的なレベルとは、この意味での「経験」という場なのである。カントによ
れば、「……カテゴリーの客観的実在性は理論的であり、理念のそれは実践的である。――
つまりそれは、自然と自由である」(アカデミー版カント全集 第20巻332頁)。 〈理念〉
はこうして、〈我々〉の危機的生存を巡る、実践的な「働き(Aktus)」となる。〈理念〉を手
にしたカントにとって、最大の標的は、おそらく「自由と因果性(自然)のアンチノミー
(二律背反)」であった。今からちょうど二百年前、晩年(1798年ガルヴェ宛)の書簡に
おいて、カントは次のように語っている。
「――私の出発点は神の存在や不死等の考察ではなくて、純粋理性の二律背反でした。
(……)この二律背反は、私を初めて独断的仮睡から呼び覚まし、理性そのものの批判に
向かわせたものであり、かくして一見理性の自己矛盾の様に見える躓きの石を除くことが
出来たのです」(カント全集第18巻 理想社)
だが、我々は、この「躓きの石」が構成する時と場所を、いまだ十分に踏破してはいな
い。それどころか、おそらくそれは、いまだ忘却の彼方にある。我々の課題は、この時と
場所を掘り起こし、そこに「批判」と「抵抗」を組み込むことである。「批判」と「抵抗」
が組み込まれたこの時と場所を、我々は《危機的迷宮》(The critical Labyrinth)と呼ぶ。
以下の記述は、あらゆる時空で作動/現実化する〈装置〉である「躓きの石」をその純
粋機能のレベルで構成する「ダイアグラム(diagram/diagramme)」としてのテクストから、
そこに「批判」と「抵抗」を組み込む《危機的迷宮》の造型作業へと次第に移行していく
プロセスになる。

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